昨日Facebookで「イジメ」について、ちょこっと問題提示?みたいな投稿をしました。
↓投稿した内容はコレ↓
なんで人は、他人の足を引っ張ろうとするんやろか?
劣等感と自己顕示欲が絶妙に絡まったからなんですが・・・
子どもの世界のイジメのこと、アカンてほんまに言える大人がどんだけいるんやろか?
そして、この↓話題をリンクした。
さて、今日の記事は「イジメ」についてもうちょっと毒を吐きたいと思います(笑)
「毒」っていうと「悪」というイメージを持ち易いですが、「薬」っていうと「善」ってイメージありませんか?
ま~ドッチでもいいんですけど。
「薬」は「毒」であり、「毒」は「薬」なんですよね。
読者様にとってどちらに働くか、私にとってもどちらが働くか分かりませんが、書いてみないと分かりません。
だから書いてみます!
こんにちは!
「心」「行動」「容姿」の3つを軸に、人間関係に大切な『自己表現』をお伝えしている
コミュニケーショントレーナー、メンタル&パーソナルファッションコーチの浦野いずみです(^∇^)
「イジメ」というと、子どもの世界や学校の世界の話と思っている大人が多いように思います。
自分とは別世界~という感覚。
なぜなら、「イジメ」はダメ・良くないこと・悪・そんな風に言ってる大人が、
モラハラ・セクハラ・パワハラ・マタハラを平気でしてる。
↑これが、子どもの世界で言う「イジメ」の発展型・成長型ってことに気づいてないんでしょうか?
イジメはダメ・悪と言っているにも関わらず、
自分の大人の世界では「イジメ」の「加害者」をやっていたり、「傍観者」をやっている人が沢山います。
そんな人を垣間見ると「どの口が言うてんねん?」と、突っ込みたくなります(^^;)
ちょっと前、ベッキーの不倫騒動がありましたね。
ベッキーのいろんな情報がSNSでいっぱい拡散してました。
これ!子どもがライン使って、グル―プ内で悪口を投稿するのと、同じようなことちゃうん?
「グル―プ内じゃないもん」って反論がありそうですが、日本というコミュニティー内で行われているってことでしょう。
子どもの世界(コミュニティー)は、大人の世界より小さいです。
大人の世界は大きいんやから、同じようなことやと思うんです。
でも、ベッキーが不倫してるから悪いやん。悪いことしてたら、当たり前やん。だって本当のことやん。
というように考える人もいるでしょう。
けれど、そうでしょうか?
「本当」のことだったら、世間で「悪い」と言われてることだったら、
本人が知られたくないだろうと思うこと、真意を確かめてもないことを公開の場で、言っていいのかな?
それが「善」なんかな?
・アナタに関係ないことじゃないですか?ベッキーにひどいことされたんですか?
・どんな背景があったのか、事情や状況をその目で見て、耳で聞いてたんですか?
・あなたの夫の愛人が、ベッキーではないんですよ。
あっ、夫に愛人がいる妻がこんな思考であるという意味ではありません。
同じような立場でも、このように思わない人がいることは知っています。
「同じような」「よく似た」を人は「同じ」と解釈してしまう癖を持っているので、ありがちなパターンとしてのサンプルです。
STAP細胞の小俣方さんの時も凄かったですね。
研究とは関係のないことまで、メディアで沢山の誹謗中傷がありました。
最近、手記を出されてまた話題になってましたね。
松本サリン事件の河野さんの時も・・・
容疑者の扱いされていたときと、無実が証明されてからのメディアの取り上げ方が、「天と地」「月とすっぽん」にも驚き。
「子は親の鏡」という諺があるように、「子どもの世界」は「大人の世界の鏡」やと思うんです。
大人が変わらなければ、子どもは変わりません。
だって、子どもは大人をみて学習するからです。
「〇○はダメだよ。」「△△はいいよ。」なんていくら言葉で言ったって、
『親の背を見て子は育つ』・『門前の小僧習わぬ経を読む』といった諺が示しているようにね。
イジメの【根っこ】を持っている大人が身近にいれば、それを自然と学習してしまうでしょう。
まるで当たり前のように。。。
まるで「正しい」「善」であるかのように。。。
イジメや争いの【根っこ】ってなんでしょう?
私は、「自分と他人は同じでなければならない。」という大いなる勘違いの信念だと考えます。
あっ、この信念を自分は持っていると自覚してる人は少ないです。
無意識の中に育った信念をわかり易く言語化してみました。
自分と
・肌の色が違う
・国や時代が違う(常識と思っているものが違う)
・価値観が違う(大事にしている物が違う)
・身体的機能が違う
・物事の感じ方が違う(嬉しい、悲しい、腹が立つ、美しい、優しい、汚いと感じる出来事が違う)
・思考が違う
と感じた他人を「攻撃する性質」のこと。
或いは、「同じであろうとして、苦しむ性質」のこと。
「イジメや争い」って書くと、自分とは関係ないように感じてしまうかもしれませんが
・なんで、あんなことするの?!
(私やったら、あんなことしないのに。私の常識と違うやん。だからそれ変やん。間違ってるやん。不潔やんとか)
・なんで、そんなこと言うの?!
(私やったら、そんな言い方しないのに。私が善と思ってることと違うやん。なんで〇○が善なん。おかしいやん。汚いやんとか)
・どうして、一緒に喜んでくれないの。どうして、一緒に怒ってくれないの?
(どうして、私の気持ちと一緒になってくれないの?!どうして、私の期待に応えてくれないの?それって私を愛してないの?とか)
このような些細とも言える感覚が、【根っこ】なんです。
これ、他人に対する【依存心】なんです。
私は他人との軋轢(アツレキ)、イジメや争い、対人関係のストレスをなくすには
「他人と自分は、異なる存在である」
コレ↑をどれだけ腑に落とせるか。
意識でも理解し、無意識(潜在意識)にもどれだけ入ってるか。
これが肝だと思っています。
自己表現の講座や個人セッションでも、この肝を一番大事にしています。
ちょっと話しがそれますが、異なる存在を攻撃するのは人間以外の動物にもみられる習性です。
グル―プの種を存続させる。個体なら個体の遺伝子を存続させるためかもしれません。
けれど、まあ~せっかく人間に生まれたんやし、これをコントロールする精神を持ってるんやし、
人間というグループでみたら一緒やし、動物ってみたら一緒やし、地球生命体ってみたら一緒やし~
って、考えを広げる能力があるのも人間だからね(^∇^)
違うけど一緒、違っても一緒、仲間ってね。
「他人と自分は、異なる存在である」と気づくことって大事なんだな~
と思って頂ける入口になれば幸いです(≡^∇^≡)
「他人と自分は、異なる存在である」とは、他人と比較をしないということではありません。
むしろ比較をするからこそ、異なっていると認識できるのです。
比較した結果、ある特定の事やある特定の人達やある特定の状況下においては、「優」や「劣」という評価が付くと知っておきましょう。
これを知っておくこともまた、今の社会で生きていくために有用だと思います。
けれど、それはある特定の視点でしかなく全てでない。人としての「優」「劣」でなない。
自分も他人もね~!
毒を吐くとか言いながら、なんか徒然に書いてしまった感(^^)
私は、「他人と自分は、異なる存在である」という感覚を腑に落として頂くために、
コミュニケーションや自己表現というテーマを通して講演活動もしています。
イジメやモラハラ、家族や組織での対人関係の軋轢、といった問題を解決する糸口やヒントを掴んで頂きたいからです。
私が勤めている学校で・私の会社で・私が入っている保護者会で・うちの施設で・うちのサークルで、こんな勉強が出来たらいいな。こんな意識が多くの人に広まったらいいな。
と、共感して下さる読者さまがいらっしゃいましたら、ぜひお声をかけてください。
私が広げたいこと、一緒に広げたいって言って下さる方がいたら嬉しいです(*^^*)
★私が広げたいこと~野望です(笑)
「個人の違い=魅力の違い、才能の違い」という概念が社会に浸透し、
身体的な優劣、個性の優劣、人種(肌の色の違い)の優劣といった価値観がなくなり、個々に自尊心を持ち、互いに尊重しあえる世界を作ること。
こんなん広げんのなんかありえへん~。という方がいるかもしれませんね。
それは私の気持ちは残念だけれど、他人の価値観や思いは他人のものです。
自分の気持ちと他人の気持ちを線引きする勇気も必要!
自分の気持ちも他人の気持ちも尊重する勇気も必要!
て、な~んか偉そうに書いたけど、私自身が持っていた課題なんです(;^_^A
人は、自分が持っている課題に目がいくもんなんです。
それが、「悪」と捉えていても「善」と捉えていても。
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